私はヘッドライトの中のウサギです

僕は自分が嫌いです。何をやってもうまくいかないし、人の気持ちはわからないし、そればかりかわがままを言い、傷つけて迷惑をかける。
すべて驕りです。
僕は他人にこうしろといわれなければ自分で何も決めることができない。自分がないのです。
論理回路を正確ににシミュレートし、インプットとアウトプットを統一すればそれは代替品として機能します。ただしそのブラックボックスの中身は本質的には異なるものとなります。
話を変えます。例えば、僕がある宝石を持っていたとしましょう。僕はいつ、どこでそれを手に入れたのかは覚えていません。ある日、僕はその宝石を売ろうと考え、市場相場であると思われる価格をつけて販売しました。しかし、買い手がつかず、僕は売ることをあきらめてしまいました。
この場合、この宝石の価値はいくらでしょうか?設定した価格でしょうか、0円でしょうか。答えは「無し」です。価値とは相対的に生まれるものなのです。
(中略)
私はその時、真実を書きとめようとしたが、そこには書き記すものがなかった。真実には客観性を持たせなければならない。思考とは流動性を持つものなので真実とは記録され不変となってこそ真実たり得る。私は仕方なく「真実」を「言語化」し、一字一句を心に刻んだ。
しかし、それが間違いだったようで私の思考、さらにその下層に位置する情動や本能までが頑固で一辺倒でわがままで主観的な「真実」に従うようになってしまった。私は愚か者である