イノセンスについて。

引用の嵐だが、個々の引用に意味は無い。もちろん文脈に沿った引用もあるが、それらは厚みを持たせるためのディテールにすぎない。
この映画を読み解くために唯一、参照すべき作品があるとすれば、それは前作である攻殻機動隊しかない。

前作のクライマックスシーンにて、素子は人形使いとの対話を試みる。素子は人形使いの視界に侵入し、人形使いは素子の視界に侵入する。
二人は精神レベルで融合し、統合した人格を持つひとつの生命体に進化する。
前作はつまり、肉体から離脱した、精神としての人間の有り様を描いた作品だった。

では、今作に描かれているものは何か。

この二作には明らかに対比がある。
コンソールのグリーンとオレンジ。
オープニングシーケンス。
前作が素子の視点であり、今作はバトーの視点である。
前作が生身を持たない「人形使い」の物語であるのに対し、今作は精神を持たない「人形」の物語である。

今作では、自我を持たないロボットたちが突如暴走したという事件の真相を追う、バトーたちの姿が描かれている。
事件は結局、ロボットの製造に子供たちの自我のコピーを利用していた企業に対する、子供たちからの反逆だった。
真相が判明した時、バトーは「お前のために犠牲になる人形たちのことを考えなかったのか」と叫ぶ。理不尽な話だ。こころを持たない人形の犠牲になど、考えが及ぶ訳が無い。
バトーは、事件を追ううちにこころを持たないはずの人形たちの「たすけて」というメッセージを、人形たちそのものが発するものと錯覚してしまったのではないか。知らず知らずのうちに、バトーは人形に心を通わせてしまったのではないか。

作品内の引用の嵐に、ひとつの解釈をつけるとすれば、こうなる。

私たちが発する言葉は、所詮、誰かの言葉なのだ。私たちの「自我」らしきものは、どこかで見聞きした言葉、思想により後天的に構築される。「わたし」が「わたし」と思っているものは、その大部分が借り物である。
目の前にいる人間が、人形でないと言い切る事はできるのか。あるいは、言葉を操り、人間のように振る舞う人形は、人間ではないのか。「人間」と「人形」を分つものは何なのか。自分が人形ではないという保証は。(作中では、一応、ゴーストという概念はあるが。)
「言葉によて構築された自我の不確実性」を、この作品は登場人物に借り物の言葉を語らせる事によって表現している。

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肝心なところがかけてない
また書くかも