画期的な概念、啓蒙と誤謬

まず。このブログはメンヘル的な性質を多分に備えています。「自分を読む」というタイトルの通り、自分をメタ的な視点から考察するために、スタンスや文体、テーマに関して制限をかけず自由に書いています。語彙も少なく見苦しい文章も多々ありますが、あえてそれを残しています。適切でない言葉を使用してしまった場合、指摘していただけたら幸いです。モヒカン方面の方は少しの言及に対しても適切なレスポンスを返してくれるので嬉しいです。
本題です。

モヒカン族」と「哲学」に共通する誤謬

ネットのそこかしこに散見する「モヒカン族」についての言及のいくつか(あるいは多く)には誤謬が含まれている。モヒカン族というキーワードに対する認識、定義にズレを感じる。その記述それぞれにも差異はあるが、大方「難しい言葉を並べ立てて掲示板やコメント欄を荒らす人たち」という文脈になる。
これは自分が「哲学」という言葉に対して感じるズレに非常に似ていると感じた。「哲学的」といえば、「難しい言葉を並べ立てて悦に入ること」という文脈で語られることが多い。本来の哲学とはかけ離れた認識だが、「意味を深く知ろうとしない/理解できないまま使ってしまう人々」が非常に多い。論理的な意見は「理屈っぽい」と見当違いのレッテルを貼られ、あいまいで支離滅裂な文章が「哲学的」と称される。本来の「哲学」の実体がないまま誤謬の「哲学的」な文章が氾濫した結果、本来の「哲学」について言及する機会の妨げになり、ついに本来の意味が失われてしまう。
これと同じ構造を「モヒカン族」という言葉が持ってしまったとき、おなじような道をたどることは免れないのではないか。学問として体系化されている哲学は専門の場では本来の意味を失ってはいないが、生まれて間もない(しかもそもそもがネイティブアメリカン北斗の拳の誤謬として生まれた)「モヒカン族」という言葉はその概念すら巻き込んで崩壊していってしまう気がする。

その言葉を最近知った。

モヒカン族」とは自分とその周辺の状況を説明する画期的な言葉だと感じ、自分の言及から参照できるようにキーワード登録をした。が、その言葉が広まるにつれてどんどん上記のような誤謬、誤解を含んでしまっている。その文脈で自分の文章も読まれてしまっては困る訳で、「モヒカン族」を啓蒙していくか、すっぱりあきらめて言及しないようにするかを選ばなければならない。また、自分も全てを理解しているわけではないので自分自身の文章にも誤謬や誤解を含んでいる可能性があることを認識しなければならない。
自分は反モヒカンではありませんが、ムラ社会的な人間です。事なかれ主義者です。実社会では不満を持ちながらも迎合しています。そういう潜在的ムラ社会の中の似非モヒカンに注目していくことが啓蒙の第一歩ではないかと思います。そのような視点からムラ社会に対する記述の欠落を気にかけているのです。

追記

http://graph.hatena.ne.jp/wtnb18/%E3%81%8A%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%81%84/
↑のような、使い方を認識した上での誤謬というか、ミスリードというかはアリだと思います。その危険性も認識した上であれば。