殴り書き

なにかを主張したいのなら、批判を受けることも覚悟しなければならない。
正確に相手に伝わるように言葉を選ばなければならない。
相手に正確に伝わっていないことがわかったら、訂正しなければならない。
自分の使っている言葉が相手にとっても同様に定義されているかを確認し、異なっているのであれば自分の定義を相手に理解してもらう、相手の定義を理解する、議論の仕方に問題があれば指摘する、わずらわしいと思うならそれはコミュニケーションを取る意味が無いということだ。
意見を批判されることは、少なくとも相手が自分の意見に対して向き合った結果であり、それがネガティブであったか、ポジティブであったか、前向きであったか、肯定的であるか、否定的であるか、善意からか、悪意なのかは議論の有意性とは関係がない。関係があるのは「正しいかどうか」。
「自分の言葉」というものは存在しないということを自覚しなければならない。言葉にとらわれているようでは「自己」を表現することは不可能。

幸せという価値観について。

乱暴な書き方だが、漠然と思うことを文章にしてみる。文章にした瞬間からそれはもともとの思考とは別物になってしまうけど、とりあえず何も書かないよりはよいと思って書いてみる。
ひとりの人間が全ての人間を幸せにすることは不可能だ。しあわせの形は全ての人間にそれぞれ存在していて、それぞれが違う形をしている。「幸せ」とは欲望、欲求が満たされた状態のことだ。
一人の人間が他人に与え得る幸せのキャパシティは人間一人分くらいだと思う。自分ひとりだけを幸せにすることは誰にでも出来る。たぶんそれが一人の人間にとってのしあわせの最大量で、ただ、それだけでは「他人を幸せにする」という種類の「幸せ」を満たすことは出来ないので、自分の分の幸せを他人に与える。その分自分の幸せは減るが。
「他人を幸せにする」というのはいいかえれば「世界に干渉したい」という欲望であると思う。それは或る意味で傲慢であると思う。
「傲慢」という言葉は僕の中で最近のブームなんだけど。動物の行動原理は欲望であって、それは人間にも言えることだ。ここでいう欲望ってのは本能的な意味から知的好奇心、自尊心、優越感、つまり自分が満たされたいと思う心のこと。自分が満たされたい、それを実現するために行動することは世界に対して何らかの干渉をしなければならない。どんな形であっても、世界に対して干渉を免れることは出来ない。ぼくはそれをとりあえず「傲慢」であると呼んでいる。「エゴ」と読み替えてもたぶん問題ない。
世界に対して傲慢であり続けるか、自己の傲慢さを自覚して生きていくか、という態度は人の生き方に影響を与える。傲慢であることを自覚していても、生きていくためには傲慢であり続けなければならない。そのために人間は生きることに苦悩する。
僕は「死ぬこと」も「生きる」というプロセスの一部分だと思っているので、「死にたい」と言う欲求も傲慢/エゴだと考える。というか。「生」と「死」、「生きている状態」と「死んでいる状態」は対称だが、「死ぬ」という行動、「死」という転機は「生きている状態」と「死んでいる状態」を反転させるプロセスであって、云々。
ただひとつの救いなのは、「傲慢である自分の在り方」を、「そのようにあって良い」と認める価値観が存在する可能性がある。その可能性によって人間は生き続けることが出来る。笑って生きていくことが出来る。
傲慢という言葉は、不利益を被る対象が明確でないとだめな言葉なきがしてきた。別のうまい言葉はないかな。
傲慢傲慢と書いていたら傲慢という字がゲシュタルト崩壊を起こし始めた。つかいすぎだ。